Nomadic Power and Cultural Resistance
Chapter. 53
関連のあるチャプター
Ch27. From A Thousand Plateaus
・ ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリのリゾームやノマドロジーの考え方が論のベースとなる。
・プラトーやノマドロジーの発想と接続
・ノマディック権力は、拠点を固定せずに空間を支配する点で、ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリのモデルと重なる
・電子的攪乱や公共的フォーラムは、ツリー型の制度やバンカー的秩序に対抗するリゾーム的実践として理解可能
著者紹介
Critical Art Ensemble (CAE) (1987-)
書籍情報
初出
Critical Art Ensemble, Nomadic Power and Cultural Resistance, The Electronic Disturbance, Autonomedia, 1994, pp.11-30
Introduction
冒頭で参照されるリゾームやノマドロジー(ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ)は、中心や起点を欠いた拡散的モデルとして導入される。ここでの主題は、そのノマド的モデルが「抵抗の理論」ではなく、むしろ現代の支配形態を説明する枠組みへ反転している点にある。電子的抵抗の文脈では、ヴァーチャル・シットインやハクティビズムといった語が入口になる。
本文
1:液状化と賭け
著者は、確実性の枠組みが崩れた状況で抵抗を設計図として語れないことを強調する。近代的な確信(革命の必然や勝利の保証)は失効し、残るのは「賭け」としての行為である。ここで示唆されるのは、弁証法的な上昇図式が弱体化した後の文化実践の条件であり、参照点としてステファヌ・マラルメや超越論、シュルレアリスム、形式主義が並ぶ。
2:ノマド権力の原型
ヘロドトスを手がかりに、定住国家と異なる権力配分=ノマド的支配の原型が提示される。権力は領土の保持ではなく、移動と不在によって成立し、防御を必要としない。古代的空間から現代の電子空間に移行したその力は恐怖と同時にスペクタクルとして現れる固定化された(サイトマシン)としても機能する。
3:電子空間でのノマド支配
古代的モデルは、電子ネットワークの開放によって後期資本主義の条件に再接続される。支配は可視の中心ではなく、追跡しづらい経路・速度・不在の組み合わせとして作動し、定住的構造はそれに従属する。C・ライト・ミルズの議論を踏まえつつ、現代ではエリートが都市から電子空間へ移ることで不可視性が強化された、とされる。抑圧の感覚はあるのに主体を特定できず、批判や検証が困難になる。この地点で、行為を「確信」ではなく賭けとして引き受ける姿勢が要請される。
4:幻滅と撤退
失敗した革命を振り返る態度は、撤退主義や冷笑的参加を優勢にする。典型としてシャルル=ピエール・ボードレールが参照され、完全な降伏ではなくアプロプリエーションによって持ちこたえた点が示される。また、幻滅は神秘主義や超越論への退却として反復され、純粋な(ポエティック・セルフ)が「抵抗」ではなく共犯性の表象になりうるとされる。ここでベル・フックスやアスガー・ヨルン、ジョルジュ・バタイユ(供犠的な非合理の経済)が別の可能性として配置される。幻滅の運動は悲劇空間に閉じ込められがちだが、徴候は日常の至る所にあるとして、アントナン・アルトーの器官なき身体が別の角度で回収される。喜劇やユーモアの批評的位置が重要であり、その貢献としてシチュアシオニスト・インターナショナルが言及される。また、社会的撤退としてロマン主義的な共同体志向も検討されるが、移植された共同体は儀礼やノスタルジアへの感染に晒され、不安定さを免れない。
5:労働運動と占拠の失効
抵抗を生産停止に託す物語は、流動化した資本の前で弱体化する。組合は交渉主体というより労働官僚制として描かれ、第一世界/第三世界の分割と移転の論理が抵抗を回避する。ここでの鍵語はゼネラル・ストライキだが、これはパリを超えて拡張しづらい構想として扱われる。さらに、占拠は封建的制度の反転に留まりやすく、バスティーユの解放と占拠が示したように「占拠で財を得る」論理は両義的で、暴力の正当化にも転じうる。
6:バンカーと私有化された公共
支配は、政府機関や記念碑、モールのような私有化された公共空間=バンカーとして現れる。そこでは市民は権利主体よりも、安心と親しみに誘導された私的経験主体として振る舞う(オートエクスペリエンス)。電子的形態はメディアとして生活を包み、建築的形態はどこにでもある同一性を反復する。これらはグローバル・ヴィレッジの産物であり、生活の領域そのものを植民地化する。
7:電子的攪乱という賭け
抵抗は物理空間よりも電子空間で行われるべきだとされ、少数の連携が権力の指揮統制に攪乱を与える可能性が語られる。ここで挙げられるのがウイルス、ワーム、ボムであり、流れの中に破壊的な慣性を持ち込む、という比喩が核になる。事例として遊戯的破壊(モリスワーム、ミケランジェロ)、誤導された諜報(マルクス・ヘス)、倫理による抑制(レギオン・オブ・ドゥーム)が並び、電子空間が「最も民主化されていないフロンティア」だとされる。「芸術」という正当化された権威を転用し、テクノカルチャー内部に抵抗を思考する公共的フォーラムを立ち上げることが重要となる。戦争機械から流出した消費者向けテクノロジーは、政治経済的バンカーに対する新たな攪乱の素材になりうる。かつてのポスターや公共芸術に代わり、今日の公共は電子的環境へと移行している。この世界がまだ完全に制度化されていない今こそ、批評だけでなく発明によってその流動性を利用すべき時である。
8/結論:遍在するバンカーと内部攪乱
バンカーとは、政府機関や商業施設、記念碑などに現れる私有化された公共空間であり、要塞的心性の伝統を引き継ぎながら、安全と親しみやすさを提供する代わりに個人の主権を引き渡させる装置である。ノマディックな権力のもとでは、働かない、消費しないという選択肢は許されず、ほとんどの人がこの内部へと引き込まれる。現代のバンカーは建築的形態だけでなく電子的形態を持つ。グローバル・ヴィレッジの環境下で、メディアは私的空間を植民地化し、スクリーンを通じて欲望を安全に消費させる。公共は政治的な場ではなく、私的な体験へと変質する。このモデルは対抗宗教改革期にまで遡る。トリエント公会議以降、教会は普遍的な臨在を戦略とし、どこにいても同じ安心を与えるバンカーとして機能した。その論理は現代ではマクドナルドのような消費空間に引き継がれ、世界は「すでに知っている場所」として反復される。国家化されたバンカーは都市のスプロール現象として広がり、大学や記念碑を通じて秩序と連続性を再生産するが、その反復性ゆえに電子的攪乱に対して脆弱でもある。抵抗の可能性は外部に逃れることではなく、消費者向けテクノロジーを転用し、バンカー内部に不安を持ち込み、安全という幻想とブルジョワ的功利主義美学を攪乱することにある。それがポストモダンにおける賭けである。
編集: 廣瀬涼、西村乾